生きがいとは何かについて、また生きがいと社会の関係性について。

 

生き甲斐とは何かを考えていくにあたりまずは生き甲斐の一般的な定義を初めに確認したいと思う。大辞林によると生き甲斐とは「生きるに値するだけの価値。生きていることの喜びや幸福感。」とある。つまり生き甲斐とは、生きるに値するだけの価値という大きな目的つまり人生の目的でもあり、生きていることによって満たされるさまざまな欲求の2つの意味があると思う。そこでこの二つの意味に対してそれぞれ考察していきたいと思う。
まず生きるに値するだけの価値について考察していきたいと思う。この価値に関してはなぜ人は生きているのかという問題と同じと考えたときに答えが哲学的になってしまい、ここで求められているような答えを出すのが難しい。しかし、一つ言えることは、生きるに値するだけの価値は人によって異なるのではないかというものだ。あなたは何のために生きているのか問われたときに、その答えが、家族を守るという答えや、趣味を楽しむためなど様々な答えがあると思う。中には答えられない人もいるだろう。むしろそのような人のほうが現代は多い気がする。死ぬ直前になってその答えが見つかる場合もあると思う。なので、人は何のために生きているのかという問いに関して、1つ明確な答えを出すことは不可能である。
そこで、映画プロデューサーのアダム・レイプツィのTEDに人生の目的が分かる5つの質問というものがある。それは、自分が誰であるか。何をするか。誰のためにそれをするか。その相手が欲しいもの、必要なものは何なのか。結果としてどんな変化を与えたか、の5つの質問である。この5つを答えると人生の目的が分かるというものだ。この5つの質問のうち自分自身のことは、自分が誰であるか、何をするのかの2つだけである。残りの三つは他者に対してである。つまり人生の目的は自分自身に対してではなく、他者に対して何を与えてあげることができるのかで決まるということである。このことから考えられることとして、生きるに値するだけの価値とは他者貢献欲求を満たすことではないかといえる。言葉を変えると、他者のために何かを貢献してあげることによってその他者によって自分の存在価値を証明してくれるということである。それが生きている意味につながるのではないだろうか。これらのことから、生きるに値するだけの価値とは、一つ明確な答えを出すことは不可能であるが、その目的は他者が存在することによって価値を見出すことができるといえる。

次に生きていることによって満たされる欲求について述べていきたいと思う。ここではマズローの欲求5段階説をもとに考えていきたいと思う。マズローの欲求5段階説とは、アメリカ合衆国の心理学者・アブラハム・マズローが「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。
これは「生き甲斐」とも深く関係するもので、自分の置かれたそのレベル段階に応じて「生き甲斐」も変わってくるのではないかというものである。普遍的に変わらないものもあるが、一般的に、上へ上がるごとに、収入から人間関係、意識までが上がっていき、それと同時に「生き甲斐」までもが変わっていく。この変わっていく生き甲斐こそが生きていることによって満たされる欲求であると考えた。欲求の段階として、生理的な欲求、安全への欲求、社会的な欲求、自我の欲求、自己実現への欲求に段階分けされている。前者から後者の段階に行くにつれてハードルが上がっている。人は現状の欲求が満たされると次の段階の欲求を求めていくため、本来であれば満たされているはずの欲求、ここでいう生理的な欲求でさえ生きていることによって満たされる欲求であるはずなのに、当たり前のものと認識し満たされているはずのものを認識できずに、満足できていないと感じてしまっているのではないだろうか。つまりここでいう、生きていることの喜びや幸福感とは、自分の気持ち次第と言ってしまっていいのではないだろか。なぜならばその人の判断軸によって喜びや幸福感というものは、基準が違う。しかしここで誤解してはいけないのは、その基準値の作成において外部的な要因も含まれているということだ。周りと比較して生まれるものでもあるため一概に個人しだいというまとめ方をしてしまってはいけない。これらのことから、生き甲斐とは明確なものではないが、人である以上、無意識的に、潜在的に必ず持っているものであると言える。なぜならば、食べることや寝ること、安全に生活できることなど当たり前に思っていることでさえ、生き甲斐ということが出来るからである。では、現代には、生き甲斐がない人が多いと言われているが、それがどのような状況なのか考えていきたい。生き甲斐のないという人が多い現代の社会では、現状の満たされている欲求が当たり前に感じており、次の段階との自分の現状を比較したときにその段階を満たしておらず、生き甲斐がないという状況に陥ってしまっていると考えられる。つまり、生き甲斐の基準が高く、常に今の自分より上に設定されているため、生き甲斐を感じることが出来ないのである。なぜその基準が高いのかというと、それは周りとの比較によって設定しているからではないかと考えることができる。
これらのことから、生き甲斐は潜在的に持っているものであるが、他者という存在がいることによって見出すことのできる、自分の存在価値のことを生き甲斐だと考える。

次に生き甲斐と社会の関係性について述べていきたいと思う。社会との関係性を考えたときにまず思ったことが宗教である。宗教は生き甲斐と社会を述べるうえで重要なものになってくると思うからだ。今までの世界は宗教が生き甲斐になっていたのではないだろうか。現代では宗教の力はそれほど強力なものではないが、昔は宗教によって人々の生き方が定められていた。例えば、例えば仏教やヒンドゥー教では、輪廻転生が信じられており、人々は次に生まれ変わるときに良い転生を生き甲斐として生きている。キリスト教ではイエスキリストを信じて生きることが喜びにつながっていると考えている。つまり信仰心が生き甲斐になっている。イスラーム教の場合は、ムハンマドに啓示されている内容としては、単なる信心だけでなく、人間が個人として、また社会のなかでどのように生き、行動すべきかという問題に対するはっきりとした答えとして、全人類に与えられた教えが記されている。つまり生きていることの価値が定義されている。これらのことにより、宗教は、生き甲斐と社会を考えるうえで切り離すことのできない存在なのである。今までの世の中は宗教によって生き方や生き甲斐といったものが示されておりそれを信じることによって社会に対して生き甲斐というものを見出してきていたといえる。しかしグローバルな世の中になり、様々な思考が生まれたことにより宗教が全てであるといった世の中ではなくなってきている。それにより、良くも悪くも自由に考えることができるようになり、それゆえに自ら価値を見出すことが出来なくなってしまっている人も存在してきていると言える。その例が自殺である。日本における自殺者が急増している理由として生きている価値を見出せずに命を絶っている。つまり生き甲斐というものを見つけることができない状況が続いた場合の最終地点が死なのである。つまり自殺者は生き甲斐を他人が与えてくれるものであると思っており、自らが生み出すものだと思っていない。または自ら作り出すことを諦めているのではないだろうか。つまり、現代の社会は自由ではあるが、それゆえに自らで考えてうまく適合することが出来ない人がおり、そういった人たちが社会との関わりを排除しようとするが排除することが出来ず最後の手段として死という選択肢をとるのである。もちろん悪いことばかりではない。ネットなどのテクノロジーの進歩によって本来では関わることのできない、遠く離れた人たちとの交流を行うことができる世の中になり、視野を広げることができ新たなる生き甲斐を発見できる可能性がある。つまり援助行動によって他社貢献を行える範囲が広がり生き甲斐を得やすくなったということである。また、たくさんの情報が入ってくることにより、必然的に知るという行為が増えたことで、今まで意識になかったものが意識として形成されて問題意識を持つことに繋がったともいえる。つまり、人々のコミュニテイが急激に広がり今までとは異なったアプローチの仕方が出来るようになり新たな思想が生まれやすい状況になっていると言える。

つまり以上のことから、生き甲斐とは二つの意味を持っていて、生きることの意味であり、生きている間に感じる喜びや幸福感である。

生きることの意味に関しては万人に共通するものはなく、人によって目的は異なる。しかし他者への貢献によって自分の存在価値を認められることになり、それが生きている目的となると言える。二つ目の意味である生きている間に感じる喜びや幸福感を生き甲斐と呼ぶ場合は、人によりそれを感じるための判断基準は異なるが、人は潜在的に生き甲斐をもっているということが言える。しかし現代社会においては生き甲斐を感じれないという人も多く存在する。なぜならば、社会との関係性においては宗教が生き甲斐を提示していた時代から個人が生き甲斐を求める時代になりつつあり、グローバル化の進む世界において生き甲斐を見つけやすくなったのと同時に、社会に価値を見出すことが出来ず、死という選択肢をとる人も増えていると言えるからだ。万人に共通する生き甲斐というものは存在しない。しかし生き甲斐とは他者と関わることで存在価値が生まれるものといえる。