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東南アジア青年の船を終えて

こんにちは!しょうちゃんです。

初めましての方はこちらから

shota0708.hatenablog.com

 

先日、2月26日に第43回東南アジア青年の船事業報告会を終えて、この船旅もついに終わりを迎えました。

まだ事後活動が残っているとはいえ、ここで一区切りです。

昨年の報告会に参加してこの事業に挑戦することを決めた為、ちょうど1年間この事業に捧げたことになります。

あっという間だったような長かったようななんとも言えないこの感じは寂しさを与えてきます。

そんな胸にぽっかーんと空いた穴を埋める為にこれまでのMy SSEAYP Journeyを振り返っていこうと思い記事を書いてます。

参加を決める以前は、正直なところ参加したくなかったというのが本音です。

なんか他人に決められたレールを歩きたくなかったし、大学で活動していたNPO法人もこれといった成果を出すことができずに形としては後輩に押し付けて逃げる形になっちゃうしと言った具合に言い訳を並べていた自分がいました。

でも正直な所、自分に自信がなかったってのが本音です。

全く会ったこともない日本も含めて11カ国の青年たちと逃げ場のない船の中で52日間も一緒に活動することが、ワクワクよりもビクビクのが強かったから。

でも、報告会に声をかけてもらって参加したらビクビクよりもワクワクのが強くなって、とりあえず参加希望するだけするかという浅はかな気持ちで申し込んだ結果、周りに迷惑をかけてしまい、気づいたら受かることに必死になって無事合格できたのを覚えています。

 

船に乗るまでの準備期間では、協賛係として一夏を過ごしました。

その頃はすごい日本参加青年に対して仲間いしきよりもライバル意識がすごくて、協賛係も誰にも負けない成果を出したいって思ってすごい頑張ってました。

なんかAIESECで培った知識や経験がすごい役に立つことを実感しててそれを周りに証明したかったんだと今思えば思います。

まさかこの頑張りに比例して船の中での協賛係の仕事が増えて辛くなるともその時は知る由もありませんでしたが。笑

 

そしてプログラムが開始して日本国内活動が始まった時が心も体もボロボロでした。笑

この事業の中で一番辛かった時期はそこだと思います。

SGと呼ばれるこの事業の活動の中で最も長い時間過ごすグループで栃木に行った時が最も辛かった。

というのも最終事前合宿で体力は持ってかれており、そんな状態の自分に追い打ちをかけるかのような言語の壁にぶつかり瀕死状態になってました。

というのも彼らの英語が全く聞き取れなくて何言ってるのかわからないのに、日本での活動だからすごい頼られて、その期待に応えられなくて凹むってのをひたすら繰り返してました。

栃木県でのホームスティマッチングで流れた動画で絢香の「虹色」の曲が流れた時に号泣してました笑

でも彼らがとても優しかったおかげでなんとかやっていけたって感じでした。

 

船の中では人間関係、言語の壁、企画力、異文化衝突などたくさんの辛いこともありましたが、その分楽しい事、一生忘れないような出来事など、本当に濃い時間を過ごしました。この事業に参加して本当に良かったって思ってます。

そんな船での生活では本当にびっくりするぐらい運が重なって、一番の人気者になれました。日本参加青年の中では一番の有名人になってやろうという野心があったのですが、全体での有名人になれるとは夢にも思ってませんでした。

それを実感した瞬間があって、その時の写真がこれです!

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これが俺のSSEAYPでのベストメモリーなんですが、

青年同士の交流を深めるアイスブレイキングで、チーム対抗戦をしていた時の写真です。

一人の回答者がスクリーンに背中を向けて回答者以外の人がヒントを与えてスクリーンに映っているものが何か当てるゲームをしていました。

最後の問題が出題される時に最後のアンサーに引っ張り出されて答えられるか心配だったのに、問題がスクリーンに映し出された瞬間にメンバーが答えがあっていた時以上の興奮をしていて、まさかと思いながらMe?って答えるとスクリーンには自分が映し出されたいました。その時の写真です。

本当に色々な奇跡が重なって最高の思い出になりました。

 

そんな毎日が刺激的だった船旅も終わりはやってきました。

お別れするのは本当に辛かったです。

1か国ずつ船から降りていきお別れしていきます。

日本だけが最後まで取り残されて、いつもは騒がしいはずのダイニングホールで寂しさに包まれながら最後の昼食を食べてにっぽん丸から下船しました。

その時に絶対に世界一周してまたみんなに会いに行こうと決意しました。

 

船から降りてオリンピックセンターに行き、事後活動の話し合いをしていたのですが、

日本参加青年の副代表から声がかかり、報告会の実行委員をやってくれないかと打診があり気づくと実行委員長になってました。

実行委員長をやってみて感じたことは、

平等だった関係に役職がつき組織化されると組織を動かすのがすごい難しいということです。

あとはしっかり最初に目標やお互いの役職の立場を明確にできずに組織を動かしてしまったことで途中で辛くなる時期もありました。

AIESECでやってしまった反省を生かすことができなかった自分に憤りを感じたことも多々ありました。

やっぱ組織をまとめて動かすって一筋縄でいかないんだなって学べました。

でも、報告会は本当に素晴らしいものを作り上げることができたので結果おーらいかな?

もう全員で会うことはないと思うと、とても悲しいけどこのJPY43rdのメンバーになれたことは最高の思い出です。

 

事業は終わっちゃたことだし新しい目標を見つけそれに向かってまた走り出したいと思います。